感想★解説ブログ「なくしたものたちの国」角田光代レビュー

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いつのまにかなくなったもの。

なくなったことにすら気づかない。

昔大事にしていたモノや、好きだったあの子への気持ち、もう会えない親戚。

もし、今何か「なくしたもの」に対して悩んでいる人がいればぜひ読んでほしい。

そんな本です。

こんにちは、たいしょーです。

長い人生では、過去の出来事に対する「喪失感」を感じることが多々あると思います。

普段はあまり小説の感想やレビューを書くことは少ないのですが、本書ではそんななくしものという喪失感への捉え方がうまく表現されており、すごく良い考え方だったため解説しようかなーと思います!

角田光代さんの「なくしたものたちの国」

あらすじとしては、

全5話で構成されており、1人の主人公が成長していく中で「なくしたもの」に対してどう捉えて、今をどう強く生きるか。ノスタルジックでありながら大事なことを教えてくれる、そんなストーリーになっています。


以降は一部ネタバレも含むので新鮮な状態で読みたい方はぜひ一度本書を手に取ってからお読みください。

「なくしたもの」に対する思いは心理学的に「プロスペクト理論の損失回避性」が働いている

こうしてブログを書いている間にも時間は進んでいく。

みんなにも過去、とっても大事にしていた宝物のおもちゃやアクセサリー、古くなって捨てた気に入っていた洋服、仲の良かった小学校時代の友達とその思い出、好きだった元カレや元カノ、片想いしていたあの人。

それらを思い出すだけでノスタルジックな気持ちになると思います。

では、なぜ、そんな思いになるのか?

それは、心理学に基づく理論として有名なプロスペクト理論の損失回避性で合理的に説明することができます。

プロスペクト理論 損失回避性とは

人間は目の前に利益があると、利益が手に入らないというリスクの回避を優先し、損失を目の前にすると、損失そのものを回避しようとする傾向(損失回避性)があるということである。

                                                Wikipedia「プロスペクト理論」 

つまり我々は、何かを得る喜びより失うものに対してより強く感情が動く生き物なのです。

例えば本書の中でも

第1話の中のストーリーでは主人公とヤギとの会話が印象的です。

小学生時代の主人公は見るもの全てが新鮮でお母さんが変装して小学校までついてくることに対しての愚痴をヤギに話します。

ヤギはそんなお母さんの行動に「いつかなつかしいとおもうひがくるわ」と言い放ちます。

このシーンはかなりグッとくるものがあり、

今悩んでいることもいずれは懐かしくる。だから懐かしい思い出としてしまっておくことが大切。

と痛感させられます。

「なくしたもの」に対する「今」の捉え方

なくしたものは大切な思い出です。

しかし、そこに捉われすぎていては「今」の人生を全力で愛することが難しいのも事実です。

では、過去のそんな「なくしたもの」に対してどう捉えていけばいいのか?

ここが本書のポイントでもあり、一番大事な結論でもあります。

大きく分けて3つあります。

「移動」という考え方

なくしたものは一見すると、「自分の中から消えてなくなったもの」と捉えられます。

しかし、本書ではそれを否定しています。

なくしたものは消えているんじゃなくて、「なくしたものたちの国」に移動している!

これが本書で繰り返し表現される「移動」という考え方です。

「無」になったのではなくて、なくしたものたちの国という自分だけのアルバムに移動してそこに「在り続けている」

そんな捉え方です。

「循環」しているという考え方

しかし、中にはこういう人もいるでしょう。

「何がなくしたものたちの国に在り続けているだ!!!移動したところで、今の自分の人生からは無くなってることに変わり無いだろ!!!」

ここで、本書では猫のミケの話を用いて「循環」という捉え方をしています。

具体的には、

主人公の母親の昔飼っていた猫のミケが亡くなった後に人間に生まれ変わって自分の元に再会しに来た、というストーリーです。

その中で、なくしたものたちはなくしたものたちの国で姿形を変えて、織り成して循環してまた出会ってを繰り返している。だから、「無」になって失っているわけじゃない。

これが「循環」の考え方です。

我々はつい大切だった思い出も忘れてしまいそうになることがあります。

しかし、忘れないようにと悩む必要はありません。

本書では

忘れてもいい。忘れていたって違う姿で、違う形で、違う命のありようでもどうしたってまた出会ってしまうし、愛してしまうのだから。

と語られており、これが「循環」の考え方の本質と思われます。

「足りないものなんてなく満たされている」という考え方

第3話では人の反芻する思いが強くなり、生き霊と化す話が描かれています。

特に恋愛なんかはわかりやすい例で、

人の思いというものは「足りない!足りない!」ともっと欲を求めてしまうものです。

その気持ちが強くなって生き霊になった・・・という話ですが、果たして本当に足りてなかったのか?と考えさせられます。

例えば、

今では当たり前に使っているスマートフォン。昔はガラケーで、LINEすらないような時代でした。

でもみんなそれで十分満足していました。

時代が進化していくごとに、世の中は便利になっていって足りない!!!と感じてしまいがちですが、

よくよく考えてみれば生まれてきた時からそれだけで我々は十分満たされていて、足りないものなんて何もないのではないでしょうか。

まとめ

辛い出来事、悲しい出来事、そんな出来事も時間が経てば、どうしてあの時はあんなに拘泥していたのか不思議なくらいになつかしいと思う日が来る。

また、楽しかったこと、もう一度戻りたいあの頃。

今は無き、そんな思い出もぜーーーんぶ「なくしたものたちの国」に在り続けている思い出としてしまっておくと「今」の人生を愛して進むことができる。

ちょっとキザな表現かもしれないけれど、そう感じます。

あとがきでも語られているように、何をなくしても世界が終わるわけではありません。

寄せては返す波のように、刻んでいく今この時間を楽しんで、愛していこうじゃないか!

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